小論文

丁度、今は受験シーズンの模様です。もっとも我が家では、受験生である弟が昨年の暮れには推薦入学が決まり、ずっとバイト三昧なので、既に受験は終わっているのかと錯覚することもしばしばあります。世間一般の受験生の皆さんにとってはなんとも羨ましく感じることでしょう。
さて、受験シーズンということで、この間掃除をしていたら出てきた、私の受験時代の遺産を少々紹介してみます。


受験生にとって付き物のひとつに、全国模試が有ります。一般的には、国語、数学、英語の三科目に、選択科目として社会科(日本史、世界史他)、理科(生物、物理他)を受けます。
しかし、それとは別に、小論文の模試も行われています。
その小論文の当時の成績を見つけたのですが、これがそこそこ良かったので、自慢します。(これ以外に誇れるようなものが思いつきませんでした)


成績ですが、偏差値71.3 全国順位44位という結果です。
しかし、文章を点数化ってどうやって採点しているのでしょうか?今ひとつ良くわかりません。


折角ですので、その小論文を全文晒す事にします。
テーマは「越境」

今私達のまわりにある境界線の中で、最も問題となっているもので、生と死の境界線というものがある。
最近テレビや新聞などで、「脳死」というのが話題になっている。これは、心臓は生きているが脳は死んでいるというもので、ちょうど生と死の境界線を、片足だけまたいでいった感じであろう。現存の日本では、脳死がまだ完全な死として認められていないらしく、常に問題となっているが、私の考えでは人間が生きているという定義は、笑ったり、泣いたりする感情が、肉体が活動しているといったものに加えられると思う。だから、脳死という状態は、この定義にあてはまらずにいるので、生と死の境界線を越えてしまっていると思う。
しかし、世間の人々の中には、肉体が活動し続ける限り越境していないと言う人々がいる。がだ、絶対に目をさまさないとわかっている人をまつ人々の気持ちはどうなのだろうか。ただ肉体を活動させているだけでは植物と同じではないか。そんな人を長く栽培していても、まっている人たちの絶望が長く続くだけにすぎないのに。
たしかに生と死の境界線をどこで区切るかは大変難しいことだと思う。私もそのことについては、知識も経験も少ないのでまだまだわからないことが沢山ある。だが、私にもわかる事実は、脳死の人間が、映画の主人公のように不死鳥のごとくよみがえるということはありえないことだ。だから私は、生と死の境界線を越えてしまうというのは、人が心を失った時ではないかと思う。

誤字等、すべてそのままに写してあります。
しかし、これで全国44位だったのですか。今読み返してみると、とても青臭く感じます。
何か、高校生の国語レベルって大したこと無いのではないでしょうか?
全国数千から、数万人(当時のですが)の受験生は、これ以下の文章しか書けないって事ですよね。


おっと、いけない。あまりの恥ずかしさに自慢するどころか、当時の己の未熟さを卑下するところでした。


今回の主題は自己主張でした。思わず忘れてしまうところでした。
気を取り直して、採点者のコメントも乗せましょう。

・境界線として脳死を具体例としてあげられたことは大変よい。又、その理由も加えられており、説得力あるものとなっている。
脳死が死である根拠を示すため、自分なりの人間の定義が行われていることは論理的で大変よい。
・自己の見解に反対の人々の見解を述べ、それに反論できていることは、自己の視点の広さを示すとともに、その説得力を高めるもので大変よい。
・境界線の具体例として、脳死をあげらたことは、今日的な重大な事柄で、発想の豊かさが感じられます。又、脳死が死であるとの自己の見解が、その論理的根拠を伴って示された上で、生と死との境界線を越えることの意味が示されていることは、大変よかったでしょう。

べた褒めです。矢張り、他の受験者と一線を画す私の才能を褒め称えずにはいられなかったのでしょう。
将に神童とは、私のことを指すための言葉に他なりません。


しかし、「神童も二十歳過ぎればただの人」と言う言葉があるように、私の好成績も永久不滅ではありませんでした。
二十歳を迎えるまでも無く、同時に受けた別テーマの小論文で、偏差値41.3 全国順位2,381位という成績を取り、一瞬すら栄華を迎えることはありませんでした。





あれ、今日のテーマって、「自己陶酔」なのに、何で落ちがついているのでしょうか。
自慢話が何故か自虐話に摩り替わっています。