『ゲゲゲの鬼太郎』5−70   

ゲゲゲの鬼太郎』第七十話「退治不可能!?泥田坊」の感想です。
今回登場の妖怪は「泥田坊」。山形県出身の妖怪だとされています。
二期の第一話「妖怪復活」をはじめ、三・四期にも登場をしている『鬼太郎』ではお馴染みの古参の妖怪です。
この「泥田坊」は鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に登場しており、放蕩息子が親から受け継いだ田圃を他人に売り渡してしまい、農民のその無念さ形になった妖怪と説明されています。
今期の『鬼太郎』は、この設定を舞台を現代に置き換えて上手く泥田坊を描ききっていました。

現在多くの新興住宅地が作られつつありますが、その中には田圃を埋め立てて作ったものが多くあります。実際に私たちの住んでいる家屋も元は田圃だったのかもしれません。
その身近に感じられる設定がリアリティを持っていた為か、とてもゲストの親子に親近感が感じられました。
また、ホラー映画を髣髴させる泥田坊の大行進も良かったと思います。町中の人たちが妖怪に襲われるさまは、パニック映画のようで素敵でした。特に、母親が泥田坊に喰われる絵が良かったですね。


個人的に妖怪のデザインが水木しげる準拠ではなかった点がやや不満でした。
過去作では、確か二・三・四期共に石燕が描いたものを本歌取りした水木先生の泥田坊のデザインでの登場でした。
ところが、今期では怪獣映画に出てきそうな着ぐるみのようなデザインになってしまいました。何故変更してしまったのでしょうか?


五期の『鬼太郎』は、人間と妖怪の共存をテーマのひとつにして作られているようですが、今回の話はそれを特に象徴するものとなっているように思います。
妖怪を退治するだけではなく、その妖怪が何故人間に害を与えようとしていたのかを解明して、その対策を行うというのは、単純に退治することよりも難しいことです。今回の場合は、泥田坊の為に永続的に稲作を続けなくてはならないので、何十年単位の苦労がこの後に続く事になります。
ラストの落ちで田圃付きの一戸建てを販売することにして大団円としていましたが、実際に田圃付きの新築を売り出しても売れないような気がします。老後のスローライフを送るなら兎も角、会社勤めをしながらの稲作はほぼ不可能でしょう。


と、ここまでは一般的に広く伝わっている泥田坊の話なのですが、実際は山形県には泥田坊の伝承は無いそうです。
妖怪研究家の多田克己の説によると、どうやら泥田坊鳥山石燕が創作した妖怪だそうです。
石燕の泥田坊の説明にある「北国」「田地」は吉原田圃と呼ばれた江戸の遊郭新吉原をあらわし、泥は放蕩の蕩とをかけており、翁が死ぬとは質草を流すことの暗喩であるとか。これらの語呂合わせを組み合わせて、新吉原そのものを妖怪として描いたのだとか。
そして、「田を返せ」と言う台詞も、田地を耕作するという意味ではなく、男女の性交を意味する隠語であり、遊女の客引きの言葉としても捉える事が出来ます。
また、石燕が妖怪画を描いていた当時、泥田坊夢庵という人物が居て、石燕はその泥田坊遊郭通いをするさまを妖怪になぞらえて揶揄したとも考えられるそうです。
泥田坊という妖怪は、一見、不労を戒める話の様に見えますが、実は個人を風刺する妖怪かもしれない。妖怪は全て創作物でありますが、こういった奥の深さがあるのが非常に面白いところです。